留萌の歴史を駆け足で追っていきます。


■ ルルモッペ ■


ルルモッペ[クリックで拡大]
(北海道大学付属図書館蔵)
 ルルモッペはアイヌ語で「海水が静かでいつもあるもの」という意味。これは留萌の海にそそぐゆるやかな流れの留萌川を意味し、その河口付近を「ルルモッペ」と呼んでいました。
アイヌの人たちの一大中心地で、和人との交易が盛んに行われていました。

ルルモッペ
(北海道大学付属図書館蔵)




■ 留萌のはじまり ■ 明治10年(1877年)


 留萌の開基は明治10年、留萌外二村戸長役場が建設された年に定められています。江戸時代前期頃から松前藩の知行地(ルルモッペ場所)として、漁業や交易を行う和人の定住が始まりと言われています。

留萌開拓風景[クリックで拡大]
当時の人口はわずか600人ほどでした。




■ 陸路の開通 ■ 明治34年(1901年)


 明治34年、留萌〜妹背牛間に道路が開通しました。留萌の人口が増え始めたのもこの頃です。
内陸と大きな道で繋がれたときでした。




■ 大和田炭鉱 ■ 明治38年(1905年)



大和田炭鉱[クリックで拡大]
 明治38年、大和田炭鉱が創業しました。大和田炭鉱では年間2万トン以上もの石炭が採炭され、留萌港から本州へ送られました。明治40年には巻き上げ機械を設備、大和田から留萌までは馬車で運び、当時としては一流の先進的な炭鉱でした。
経営者である大和田荘七さんの名前は、国鉄留萌線の駅名や大和田町という地名としていまでも残っています。




■ 国鉄留萌線の開通 ■ 明治43年(1910年)



記念すべき第一号[クリックで拡大]
 明治43年、深川〜留萌間を結ぶ国鉄留萌線が開通しました。それまで札幌へ行くには留萌から船で石狩へ出るのが主で、冬の大時化の時には通行ができませんでした。国鉄の開通は留萌の発展に大きな拍車をかけることになりました。

 この年、時を同じくして念願の留萌港築港工事が始まり、大和田炭鉱からの石炭が順調なこともありまさに新興の町として活気に溢れていたときでした。この時期、留萌の人口が一気に増えました。
町全体が将来の希望に満ち溢れていたときです。




■ 留萌港 ■ 明治43年(1910年)〜昭和8年(1933)

 明治43年の国鉄留萌線の開通と同時に着工された留萌港は昭和8年完成しました。これに伴い空知炭鉱、留萌近郊の天塩炭鉱の石炭積出港として活躍し、留萌発展の基盤となる港になりました。石炭は主に本州方面に送られました。

 しかし、エネルギー革命により昭和30年代後半から40年代にかけて次々に炭鉱は閉山し、石炭積出港としての留萌港の役目は終わり、町全体の衰退が始まることになります。

 現在留萌港では、主にロシアやマレーシアなどから木材や石炭などが入ってきます。

築港開始直後[クリックで拡大]

留萌港の完成、石炭ローダ
国鉄、港にと留萌発展のために尽力をしてくれた人が五十嵐億太郎さんです。




■ ニシン漁 ■


留萌のニシン漁
 早春、産卵のためにニシンの大群が岸に押し寄せるのを群来と呼びます。それを漁獲する「やん衆」と呼ばれる出稼ぎ労働者で町の人口が2倍にもふくれあがり、留萌は「千石場所」(一場所で千石も獲れる)と呼ばれ賑わいをみせていました。ニシン漁が賑わっていたのは江戸末期から昭和29年まで。その後ニシンは姿を消し、千石場所の終焉を迎えます。

(詳しくは、他のページで説明しています。)




■ かずのこの町、留萌 ■


 1884年、留萌市礼受町で始まったニシン漁は留萌における水産加工の原点といえます。漁獲されたニシンの大部分は肥料としての漁粕、保存食品としての干し数の子、身欠ニシン等に加工され、北前船により本州方面へ出荷されました。以後昭和29年に前浜からニシンが消えるまで長く続くことになります。

 ニシンが獲れなくなってから、ロシア、カナダ、アメリカ等から冷凍鰊、原卵を他地方に先駆けて輸入し、伝統あるニシン加工の技術と数の子の品質向上にまい進しました。その結果「全国一の生産量と品質を誇る留萌の数の子」と評価されるようになりました。
留萌の水産加工業の歴史は160年に渡るニシン加工の歴史です。

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