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日本海で「春ニシン」と呼ばれているのは、北海道、樺太群のニシンを指します。このニシンは3から5月にかけて北海道の日本海岸に産卵のため来遊しました。。
ニシン漁がいつから行われていたか詳しくはわかっていませんが、北海道に和人が来る前にもアイヌの人たちが自家用にタモ網で漁をしていたと言われています。
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■江戸時代■
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北海道における本格的なニシン漁の始まりは江戸時代まで遡ります。当時、蝦夷地では稲作が行われておらず、蝦夷を治めていた松前藩は米で知行を与えることができませんでした。そこで松前藩では米の代わりに、アイヌの人たちとの「交易」をする権利、漁業を行う「土地(知行地)」を家臣に与えたのです。
江戸時代中期になると、藩士たちは知行地の運営を商人に委託し、委託された商人は交易の利益の一部を運上金として藩士に納めました。この交易の主役がニシン漁となってゆきました。
(※北海道における稲作は18世紀後半になって普及しました。)
弘化元年(1844年)、カクダイ佐賀家が留萌の礼受にニシン漁場を開きました。これが留萌のニシン漁の始まりと言われています。
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■明治時代■
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明治後期のニシン漁海岸風景の絵 |
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江戸時代、ニシン漁は松前藩によって制限されていました。しかし明治時代に入るとニシン漁は自由に行われるようになり、家族経営の刺網、網元以下数十人から数百人の規模で行われるニシン定置網が行われるようになります。これがニシン漁を大きく発達させ、それと伴い漁獲量も増大してゆきました。 |
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■大正・昭和時代■
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大正に入りニシン漁が大規模になると、青森、秋田、山形方面からたくさんの出稼ぎ人(やん衆)がやってきて、ニシン漁とともに留萌の町は活気に溢れていました。 |
昭和のニシン漁風景1 |
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ニシンの群れが来たときは学校までもが休みになり、子供たちも漁に出るくらいでした。 |
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当時、漁獲されたニシンは、ニシン粕、身欠ニシン、干数の子等に加工され、一部は生食用として販売されました。加工されたニシン製品は北前船に乗り、主に関西方面へ運ばれました。中でもニシン粕は肥料として日本の農業を大きく支えました。
このニシン製品の歴史は今でも数の子は関西を中心に、おせち料理として欠かせないものになっています。 |
昭和のニシン漁風景2 |
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そして日本のニシン漁に終わりが訪れます。ニシンの来遊は南から順に途絶え、明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には日本海春ニシン漁は完全に幕を下ろすことになりました。
現在では「ニシンよもう一度!」と、ニシン放流事業を行っています。(詳しくは、他のページで説明しています) |
昭和のニシン漁風景3 |
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